大阪地方裁判所 平成10年(ワ)10302号 判決 2000年2月10日
原告 株式会社グルメ杵屋
右代表者代表取締役 C
右訴訟代理人弁護士 中垣一二三
同 針間禎男
同 藤本裕司
被告 株式会社東京都民銀行
右代表者代表取締役 D
右訴訟代理人弁護士 上野隆司
同 髙山満
同 廣渡鉄
同 浅野謙一
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実及び理由
第一原告の請求
被告は、原告に対し、四〇〇万円及びこれに対する平成一〇年九月一日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
一 事案の概要
本件は、何者かに普通預金通帳を悪用され、四〇〇万円を引き出された原告が、右預金の払戻しにつき、被告担当者に過失があったとして、被告に対し、主位的に預金契約、予備的に不法行為にそれぞれ基づき、右四〇〇万円及びこれに対する遅延損害金(不法行為については年五分)の支払を請求した事案である。
二 争いのない事実
1 原告は、被告新宿支店に、使用印鑑の届出をして普通預金口座(口座番号<省略>、以下「本件口座」という。)を開設し、平成一〇年八月三日当時、普通預金四〇七万二九五九円を預け入れていた(以下「本件預金」という。)。
2 平成一〇年八月三日午後三時ころ、被告西大久保支店(以下「本件支店」という。)窓口において、本件預金につき四〇〇万円の払戻請求(以下「本件払戻請求」という。)が行われた結果、本件口座から四〇〇万円が払い戻された(以下「本件払戻」という。)。
3 右払戻手続は、本件支店の行員が、預金払戻請求書(乙四、以下「本件払戻請求書」という。)に顕出された印影(以下「本件印影」という。)と原告の通帳(以下「本件預金通帳」という。)に顕出された印影(以下「本件副印影」という。)とを照合し、同一であると判断したため、実行された。
4 原告は、平成一〇年八月三一日に被告に対し、本件預金の預金契約(以下「本件預金契約」という。)に基づき四〇〇万円の払戻を請求した。
三 争点
本件払戻において、本件支店の窓口担当者であるE(以下「E」という。)及びその上司であるF(以下「F」という。以下、両名を合わせて「Eら担当者」という。)が、本件預金通帳及び本件払戻請求書を所持し、本件払戻請求を行った者(以下「請求者」という。)を本件預金契約における正当な預金者であると信じたことにつき、過失があったといえるか。
1 原告の主張
(一) 銀行が行う印鑑照合の方法は、肉眼による平面照合で足りるとしても、銀行の印鑑照合事務担当者は、社会通念上、一般に期待されている業務上相当の注意をもって慎重に照合を行うことを要し、払戻請求書に顕出された印影と預金者が予め銀行に届け出た印鑑による副印影(預金通帳に顕出された印影)とを対照する際には、全体を一瞥するだけでは足りず、一字一字の字画を点検する必要がある。本件印影は、外枠の円の二か所が欠け、文字の線が本件副印影と比べて特に太めであったり不鮮明であったから、Eら担当者としては、改めて請求者に対して押印を求めるべきであり、また、それが可能であった。そうすれば、本件印影と本件副印影とが同一でないことは、容易に判断できたはずである。
(二) 原告は、本件預金については、これまでコンピューターによる払戻(以下「EB」という。)しかせず、届出印を使用して払戻手続をしたことが一度もなかった。このことは、本件預金通帳の記載自体から容易に判断できた以上、Eら担当者は、本件預金につき、既往の払戻手続の履歴を調査すべきであった。
(三) 本件払戻時における本件預金の残額は、四〇七万二九五九円であるところ、本件払戻請求では、ほぼ全額に近い四〇〇万円の払戻請求がなされていること、また、本件預金が被告新宿支店において開設されたにも拘らず、本件支店で本件払戻請求がなされていることから、Eら担当者は、払戻手続を行う際には、慎重に業務執行すべきであった。
2 被告の主張
(一) Eら担当者は、本件払戻の際、本件印影と本件副印影とを平面照合及び折り重ね照合の方法により照合したところ、本件印影には、朱肉が付き過ぎてはいたが、銀行員が肉眼で発見し得るような印影の大きさ・配字関係には相違が認められず、本件印影と本件副印影との非同一性は、容易に判断できなかった。また、印影のずれなどがない限り再度払戻請求者に押印させる必要はないところ、本件印影にはずれがない以上、Eら担当者には、再度印鑑を押捺させる必要はなかった。
(二) 大量の預金払戻事務に迅速に対応しなければならない銀行は、一般に預金の払戻にあたり、個別の預金ごとに既往の払戻手続の動態的態様までは調査しないのが通常である。
(三) 預金者が株式会社等の企業である場合には、払戻時の残高のうちほぼ全額に近い額を払い戻すこともまれではなく、オンライン化されてからは、他店に口座が設けられた預金についても、このような預金の払戻はまれではない。また、本件支店に来店した請求者が不審な挙動を一切しなかった以上、Eら担当者が一般の払戻手続同様、本件払戻請求に応じたことには、何ら問題はない。
付言すれば、通常の印鑑照合は、窓口の担当者一名が行うところ、本件払戻においては、Eは、上司のFに指示を仰ぎ、Fも印鑑照合を行った以上、慎重な業務執行をしたといえる。
第三当裁判所の判断
一 事実関係
前記争いのない事実、<証拠省略>及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。
1 原告は、全国に五〇五店舗を有する会社であり、被告新宿支店に本件口座を有し、平成一〇年八月三日当時の預金残高は、四〇七万二九五九円であった。
2 原告従業員は、平成一〇年八月三日午前一一時ころ、コンビニエンスストアーで本件預金通帳のコピーをとった際、コピー機上に本件預金通帳を置き忘れ、紛失した。
3 右同日午後三時ころ、請求者(ワイシャツにネクタイを締めた二五歳から二七歳くらいの氏名不詳の男性)が本件支店を訪れ、本件預金通帳及び本件払戻請求書を持参し、本件払戻請求を行った。
4 Eは、被告の窓口業務に約六年間勤務し、印鑑照合等の事務を行ってきた。Eは、印鑑照合する際には、払戻請求書に押捺された印影及び預金通帳に押捺された副印影について、平面照合及び折り重ね照合を行うことにより、その同一性を判断していた。
Eは、本件払戻請求が他店に口座が設けられている預金の払戻手続であり、かつ、払戻請求金額が四〇〇万円と高額であったことから、請求者に対し、事前に連絡をしたのかどうかを尋ねたところ、同人が携帯電話でどこかに連絡した上で「していると思います」と回答したので、出納係に右連絡の有無を確認した。出納係からは、事前の連絡はないとの回答があったが、Eは、請求者が来店していたので、払戻手続を進めることにした。
5 Eは、平面照合及び折り重ね照合により本件印影と本件副印影との照合をした結果、本件印影には朱肉が付き過ぎていることを認識したが、右両印影は、同一の印章によって顕出された印影であると判断した。
被告の内規によれば、一〇〇万円を越える預金の払戻については、出納役が行うことになっており、本件支店では、預金の役席の地位にあり、課長代理であるFの決裁を要することになっていた。本件払戻は、請求額が一〇〇万円を越えていたため、Eは、Fの決裁を得るべく、本件預金通帳と本件払戻請求書を渡した。
6 Fは、昭和四八年四月以降被告に勤務している者であるが、被告の内規に従い、一〇〇万円を越える預金の払戻の決裁をする際には、窓口係から受け取った払戻請求書の印影と預金通帳に表示された副印影とを平面照合することにより、右両印影の同一性を判断していた。
Fは、本件払戻請求書に押捺された本件印影と本件副印影とを平面照合した結果、本件印影には朱肉が付き過ぎていることは認識したが、押印の際の印影のずれ等の形跡が認められなかったので、右両印影は同一の印章によるものであり、請求者に対して印章を再度押捺させる必要はないと判断し、本件預金通帳及び本件払戻請求書をオペレーション係に渡し、出納係を通じて四〇〇万円の払戻がなされた。
この間、請求者は、ソファに座って待機していたが、何ら不審な挙動は認められなかった。
7 原告は、預金の払戻をする場合には、本件払戻までは、EBしか利用していなかった。もっとも、被告は、右調査の際にも、本件預金に関する払戻の来歴についての調査は実施しなかった。
二 被告の契約責任について
1 印鑑照合について
(一) 原告は、本件印影においては、外枠の円の二か所が欠けていること、文字の線が本件副印影と比べて特に太めであったり不鮮明であることから、印鑑照合において本件印影と本件副印影の相違は容易に判断し得た旨主張する。
しかしながら、銀行の印鑑照合事務担当者は、預金払戻請求があった場合に右照合が必要であることはいうまでもないが、同請求が、銀行の日常業務として大量になされ、しかも迅速に応じることが要求される性質のものであることに照らせば、当該払戻請求書に使用された印影と預金者が届け出ていた副印影とを照合するにあたっても、特段の事情がない限り、肉眼による平面照合の方法をもってすれば足りると解される。また、この場合、担当者は、銀行の印鑑照合事務担当者として、社会通念上期待される業務上相当の注意をもって照合を行った結果、右両印影の一致が確認できれば、それ以上に、当該払戻請求者が正当な権利者であるかどうかまで確認すべき義務はないというべきである。
(二) <証拠省略>及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 本件印影及び本件副印影には、いずれも「株式会社グルメ杵屋代表取締役」の記載がある。鑑定人G(以下「鑑定人」という。)は、万能投影機を使用して本件印影と本件副印影とをそれぞれ同率で拡大した上で、その異同を鑑定した。
(2) 鑑定人は、右のようにして拡大された本件印影(別紙二<省略>のとおり)と本件副印影(同一<省略>のとおり)とを比較対照すると、本件印影では、外側の輪郭線内にある「株」の印字上部外枠輪郭線及び同「グル」の下部外枠輪郭線が明確に顕出していないこと(別紙二<省略>A)、内側の輪郭線内部の印字及び外側の輪郭線内にある「社」の印字と「グ」の印字との間の下部外枠輪郭線の太さに相違があること(同B)並びに印影では、印影の真ん中から上方にかけての印字画線には、マージナルゾーン(ふち線が濃く、内側が点々状態になるなどして薄くなっている部分)が多いことが認められると判断した。
(3) 鑑定人は、以上によれば、本件印影は、写真製版による金属板を使用し、本件預金通帳に顕出された本件副印影を偽造して作出された可能性が大きく、本件副印影を顕出させた印章と同一の印章を押捺したものとは認め難いとしている。
右認定にかかる鑑定人の印影異同の手法及びこれに基づく判断は相当で、他にこれを覆すに足る証拠はない。これに、証拠(甲一〇)をも勘案すれば、本件印影は、本件副印影を顕出させた印章と同一の印章により押捺されたものとは認め難い。したがって、Eら担当者は、結果的には、右相違があったにもかかわらず、これに気づかずに本件払戻を行ったものと認められる。
(三) しかしながら、前記認定事実及び証拠(鑑定)によれば、右の両印影は、印影の大きさが同一である上、字体、配字関係はおおむね同一であること、本件印影には、外枠輪郭線上が明確に顕出していない部分が二箇所存在するものの、このような非顕出部は、印章の使い込み方による印章の変化、紙の状態、押印する力の強弱により生じ得るものといえる余地があること、印字と輪郭線の太さに相違はあるものの、本件副印影の押印圧を強くしたときに現出する印影の印字及び輪郭線の太さの相違は、ほぼ一見して明らかなものとはいえず、しかも、右相違は朱肉の着用過多など使用条件の変化等によっても生じ得る余地があること、マージナルゾーンは、押印圧が強い場合に生じ得るものであるところ、その強弱は、特殊な機械を使わない限り、容易には判断できないものであることが認められる。
そうすると、右両印影の相違は、銀行の印鑑照合事務担当者が社会通念上、一般に期待される業務上相当の注意をもって照合を行ったとしても、肉眼をもって発見できるものではなかったといえる。ちなみに、鑑定人も同旨の判断をしている。
2 再度の押捺について
(一) 原告は、前記両印影が相違する以上、Eら担当者は、請求者に対し、再度印章を押捺するよう求めるべきであった旨主張する。そして、本件でそのような手続が取られなかったことは、前記認定のとおりである。
しかしながら、前述のとおり銀行の印鑑照合事務担当者は、特段の事情のない限り、払戻請求書に顕出された印影と預金者から届け出られた副印影との同一性を確認できれば、それ以上に、払戻請求者が正当な権利者であるかどうかについてまで確認する義務はないものと解される。そして、前述の性格を有する銀行の払戻手続では、右特段の事情とは、盗難届が提出されていることや当該払戻請求者に不審な挙動が認められるなど、当該払戻手続をなす者が正当な権利者でないことが銀行の印鑑照合事務担当者にとって容易に判断しうる事情があった場合を指すものと解すべきである。
(二) そこで、これを本件についてみるのに、前述のとおり、本件印影と本件副印影とが相違していたことに鑑みれば、Eとしては、請求者に再度印章を押捺させることが結果的には望ましかったとはいえるが、前述した本件印影と本件副印影との相違の状況に照らせば、請求者に対し、改めて押捺を求める必要性を感じなかったとしても、やむを得ない。
したがって、本件では、原告主張の両印影の相違の事実をもって、Eら担当者が、請求者につき、右のような正当な権利者でないことを容易に判断しうる事情があったとはいえない。
(三) このように、被告には、請求者に対し、再度印章を押捺させるべき義務があったとは認められないから、原告の右主張は採用できない。
3 本件預金の既往の履歴に関する調査義務について
原告は、従来本件預金の払戻にあたっては、いずれもEBしかしたことがなく、このことは、本件預金通帳の記載自体から容易に判断できた以上、Eら担当者は、このような原告の既往の払戻手続の履歴を調査すべきであった旨主張する。そして、被告が右調査を行わなかったことは、前述のとおりである。
しかしながら、EBも届出印を使用する払戻も、いずれも払戻手続には変わりないから、Eら担当者が、右払戻状況を調査したり、何らかの疑念を持つべきであったとはいえない。そうすると、原告主張の右事実をもってしても、直ちに、本件においてEら担当者が、請求者が正当な権利者でないことを容易に判断しうる事情があったとはいえない。
したがって、原告の右主張は採用できない。
4 慎重な業務執行の有無について
(一) 原告は、本件預金の残額は、本件払戻の際、四〇七万二九五九円であるところ、本件払戻請求では、ほぼ全額に近い四〇〇万円の払戻請求がなされていること、また、本件預金が被告新宿支店において開設されたにもかかわらず、本件支店で本件払戻請求がなされていることから、Eら担当者は、本件払戻を実施する際に、より慎重な業務執行をすべきであった旨主張する。そして、本件預金の全額及び本件払戻請求にかかる金額が原告の主張するとおりであることは、前記認定のとおりである。
(二) しかしながら、株式会社等の企業が、預金残高全額にほぼ相当する金額を払い戻すことは、決してまれなことであるとは考えられず、原告が飲食業等を経営し、全国に五〇五店舗を有する会社であること(甲一〇)をも合わせ考えるならば、原告主張の右事実をもって、請求者が正当な権利者でないことが、Eら担当者に容易に判断しうる事情があったとはいえない。
(三) よって、被告には、本件払戻を実施する際に、より慎重に業務執行すべき義務はないというべきである。
5 正当な権利者であると信じたことについての被告の過失の有無
以上のとおり、被告には、本件払戻の際に、前記印鑑照合以外の確認方法をとるべきであると認めるに足りる他の事情は認められず、右照合により本件印影と本件副印影との同一性が一応確認された本件においては、それ以上に、請求者が正当な権利者であるかどうかについて確認すべき義務はないというべきである。
したがって、被告が、本件預金通帳と本件払戻請求書を所持し、本件払戻請求を行った請求者を本件預金契約における正当な預金者の使者であると信じて払戻をしたことには、過失がなかったというべきであるから、原告の本件主位的主張は採用できない。
三 被告の不法行為責任について
前述のとおり、被告において、本件預金通帳及び本件払戻請求書を所持し、本件払戻請求を行った請求者を本件預金契約における正当な預金者の使者であると信じたことにつき過失がなく、その他被告の過失を認めるに足りる証拠が認められない以上、被告には不法行為責任も認められない。
したがって、原告の本件予備的主張もまた、採用できない。
四 結論
よって、原告の本件請求をいずれも棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 田中敦)
<以下省略>